Akiko's Snoopy World屋島旅行記


2009年8月26・27・28・29日

屋島旅行記 その5

この旅行にあたり、観光地の候補が2つあった。
ひとつは、「桃太郎」。 女木島を中心に 鬼が島観光。
もうひとつは、「源平」。 那須与一で有名な源平古戦場めぐり。
私もも「源平」を選択。それにから「屋島に行くなら那須与一を見てきて」の推薦もあった。

遊鶴亭登山道入り口から屋島の東側を南下して行くと、すぐに従兄弟が対岸の入り江を指差し、 「平家が船を隠したと伝えられている船隠し」と教えてくれた。

道を右折し、少しばかり坂を登ると安徳天皇社があり、車を降りる。
安徳天皇社
境内の入り口には「浩宮徳仁親王」と刻まれた新しい石碑がある。
訪れた記念であろう。「皇室一系」を感じる。歴史物語は現在にも通じているのだと。
境内から下を見下ろすと、海まで台地が広がっているが、きっと海はもっと近くまであったのだろう、と想像する。

「あっちに佐藤継信(さとうつぐのぶ)の墓」と従兄弟が指差す方を車の中から眺め、スルー。

いよいよ那須与一じゃ!
寿永4年(1185年)2月、讃岐屋島へ逃れた平家を追って、義経は海路阿波に上陸、陸路屋島に迫り、背後から平家を急襲した。 驚いた平家軍は、船に乗って海へ逃げたが、源氏軍が案外少数と知って応戦し激しい攻防が繰り返された。 日が暮れて両軍が兵を引きかけている時、沖の平家軍から年若い美女を乗せた小舟が一艘漕ぎ寄せてきた。 美女は、紅地に金の日輪が描かれた扇を竿の先にはさんで船べりに立て、陸の源氏に向かって手招きをしている。 これを見た、義経は、弓の名手・那須与一宗高に扇を射抜くよう命令した。 与一は、馬を海に乗り入れたが、扇の的までは、まだ40間(けん)余り(約70メートル)もあり、しかも北風が激しく吹いて扇の的は小舟と共に揺れている。 「南無八幡」と心に念じた与一が渾身の力で鏑矢を放つと、矢はうなりを立てて飛び放たれ見事に扇の要近くに命中。扇は空へ舞い上がり、ひらひらと海へ落ちた。 この様子を固唾を飲んで見守っていた源平両軍は、どっと歓声を上げて与一を褒め讃えたのであった。 (引用--高松平家物語歴史館
那須与一
中学のとき古文の授業で習った那須与一では、 「 いくさ だというのに、なんでこんなことができるんですか?」 という生徒の質問に、先生が、
「このころは戦も優雅だったんですね」と答えた。
だから 平家滅亡に関わる時期のことであったという認識がなかった。(^^ゞ


駒立石 那須与一が海の中で足場を安定させるためにここに馬を立たせたという駒立石
住宅地の隙間に、この石のために残された「水辺」。
泥の中 という具合だが、満潮時には海水がここまで来るらしい。
「扇の的はこの辺り」というところに 船に乗った女官と扇の絵が描かれていた。
与一が「南無八幡」と祈ったといういのり岩がそばにある。ただしこれはレプリカ。 実際にあったと言われるところには家が建ち、庵治町の「あかりロード」の家々にある工夫を凝らした石灯篭に紛れている。

真新しいお寺といった様子の洲崎寺(すさきじ)へ。
このお寺は、義経の身代わりとなった佐藤継信の亡骸を 戦火で焼け落ちた本堂の扉で源氏の本陣、瓜生が丘に運んだとして、継信の菩提寺とされている。
洲崎寺
境内には新しい石版に、“源平合戦絵図”のほか “佐藤継信の討死” “那須与一 扇の的” “景清の綴引き” “義経の弓流し”といった謂れが刻まれている。
「大河ドラマ、見てて良かった」と私もも言ってはいるが、ホゥホゥと納得しつつこの石版を見入る。

途中、この先の本陣山田屋に寄る。

ふと、従兄弟が車を止め、「赤牛崎(あかばざき)」だと言う。
島である屋島には容易に渡れないが、源氏軍は、そこを渡れるという赤牛に松明をつけ浅瀬をつたって屋島に上陸したという。
「そんなおおげさな、屋島はすぐそこ…。」 今では屋島が島であった名残を示す相引川が、渡るのも困難に思えた海の一部であったとは なかなか想像し難い。

---つづく---
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